我が行く道は <3>










今話題に上っている呼吸法とは。



ただ息を吸って吐くだけの繰り返しだが、自分の呼吸、または相手の呼吸を把握することによって、技を繰り出す瞬間を計ることが出来る。
その瞬間が合えばそれは一撃必殺の技となり、逆に少しでもズレが生じれば相手に反撃の好機をもたらす。










呼吸法を会得(えとく)するのは武術を志すものにとって基本中の基本である。










神谷道場でもそれは当然のごとく修練に取り入れており、弥彦にも指導はしていたのだが呼吸法の会得はいまひとつであった。
他の修練と違ってそれは地味なものであったから、いかに呼吸法が戦いにおいて重要であるかを諭(さと)しても、実戦重視型のこの少年はいまいち理解できていなかったらしい。
したがって、本人も無意識のうちに呼吸法は自分にとってあまり重要ではないと思い込んでしまったらしく、呼吸法の修練の時間になると乗り気でないのがはたから見ても分かるくらい顔に出ていた。
しかし、篠崎が時計の秒針を用い、それに合わせて呼吸を整える方法を弥彦に伝授すると、この時期特有の飲み込みの早さで彼は呼吸法を習得してしまった。



「私が教えた時は全然モノにならなかったのにね」
「お前の教え方が悪かったせいだろ」
「なんですって!?」



喧嘩腰になった薫をまあまあとなだめて、
「針が刻む音を呼吸法に取り入れるのはいい方法でござるな」
と篠崎に向き直った。
「曖昧(あいまい)な表現ではなく、何か具体的に例えるものがあると飲み込みも早くなるものだよ」
「さっき私も篠崎さんに指導を受けていたんだけど、この音を聞いていると心が落ち着くのよねぇ。何か、聞いているだけで自分の体じゃないみたいに動きが良くなる気がして」
「錯覚だ、錯覚」



ごっ       



ぼそっとつぶやいた弥彦の頭に、薫が無言で拳骨(げんこつ)を落とす。
「いきなり何すんだよッ!」
「あんたがいちいち突っかかるからでしょ!?」
「うるせえな、本当のことじゃねえか!」
「・・・ッとに口の減らないコね!」
剣心の仲介も功を奏さず、二人はぎゃいのぎゃいのと罵り合いを始める。

これもまた、神谷道場の日常風景といえよう。
足繁(しげ)く通っている篠崎も、この光景に何度も遭遇しているため、既に慣れてしまったらしい。

喧嘩真っ最中の師弟を眺めつつ、口調を変えて剣心に話しかける。
「今回の事件だが、犯人たちは皆、今の世の中を憂いて凶行に及んだのではないかと考えているのだ」
「何か根拠でもあるのでござるか?」
「根拠というほどのものではない。だが、最初の事件の犯人である奥村は愛国心が強い青年で、今の明治という腐った世を嘆いていた」










何千、何万という犠牲の上で成り立った明治政府はただの飾り物でしかなく、実際にこの国の行く末を真剣に考えている者は少ない。










「奥村の家はもともと幕府直参(じきさん)の旗本だったが、動乱時は官軍についたそうだ。それもひとえにこの国の未来を守るための苦渋の決断だったらしいが、主君を裏切り、同胞の亡骸を踏み越えてきたのにこの現状はあまりに酷すぎる、とよくこぼしていた」
酒を飲むと熱が入りすぎて、よく騒ぎになって自分が止めに入ったものだ、と篠崎は懐かしそうに虚空を見つめたが、すぐに真顔になり話を続けた。

「奥村が最初に斬った上官というのは、もとは幕軍だったらしいが、こちらは奥村と違って自分が不利な状況に置かれたことを知るやいなや、自分の仲間を裏切って官軍の司令部に取り入り、今の陸軍省の地位を手に入れた。公表されているわけではないが、そういった過去はどこからともなく広まっていくものだ。当然、彼の評判は芳しくなかったが、それでも彼の持つ肩書きもあって皆表立って批判しない。しかし、奥村は許せなかったのだろうな。きっと、心の奥底にその上官に対する怒りを溜め込んでいたに違いない。おそらく、事件当日に彼から何か言われてそれが奥村の怒りに火をつけたのではなかろうかと、私は考えているのだ」

一息に言ってから、再び篠崎は湯飲みに口をつけた。

「第二の事件の犯人も、年齢こそ若いがこの国のあり方について仲間達と熱心に語り合っていたらしい       そんな年頃の少年にまで杞憂を感じさせるとは、この国ももうだめかもしれんな」
「篠崎殿、確かに今の世の中は動乱の中を駆け抜けてきた者達から見れば頼りなく映るかもしれぬ。しかし、我々が希望を捨ててしまってはいい国になろうはずもない」










「本当にそう思っているのかね、緋村君。いや、人斬り抜刀斎」










その一言で今まで口喧嘩をしていた薫と弥彦が動きを止め、動乱を生き抜いてきた二人を凝視する。
篠崎が鋭い目で剣心を見下ろしている。
       山縣卿とは旧知の仲でね、貴殿のことは彼から聞いている。無論、今の貴殿の生き方を批判する気はない。だが、今の政府の在りようを見ても貴殿は傍観を決め込むのか?我々が必死の思いで作り上げた基盤を、自分の利益しか考えていない金の亡者共に土足で踏みにじられるのを見ても、貴殿は何も感じないのかッ!?・・・・私は、こんな現実のために剣を振るってきたのではない!!」
だんだんと声が高くなり、最後のほうはほとんど叫び声になっていた。
篠崎の声が道場内に響き渡り、薫はびくっと身をすくませる。
「・・・・拙者とてこの国の行く末を憂いて剣を取った者の一人。明治政府のやり方に異を唱えたい時もある。しかし」



篠崎の猛る心をそのまま映し出したかのような瞳が剣心に向けられる。
その視線を真っ向から受け止め、剣心は続けた。



「奥村や野口のように、この国をよりよくしたいと願う者達がいる。不幸にも、この二人は一連の悲しい事件を引き起こしてしまったが、それでも純粋にこの国の行く末を想っていたのでござろう。篠崎殿は、年若い者たちにこの国の未来を杞憂させてしまったことをひどく嘆いておられるが、拙者は彼らが杞憂した心こそが次世代につながる力と考えて、むしろ頼もしく思うのでござるよ」
「頼もしい・・・・だと?」
眉をひそめた篠崎に、剣心は力強く頷く。
「杞憂した心はやがて願いとなり、人を動かす。もちろん、若さゆえの危うさもあるだろうが、ただ権力に流されるだけの人間になるよりずっとよいではござらんか。それに、今の明治政府は発足してまだ十年ちょっと。やっと歩き始めた赤子と同じでござる。生まれたばかりで完全を求めるのは無理というもの・・・ひとつの国をまとめる政府が成長するにはまだまだ時間が必要でござるよ」










お互い、視線を逸らさずに向かい合っていたが、やがて篠崎がふっと破顔した。










「貴殿の言うとおりだな。考えてみれば、明治政府はまだ二十才にも満たぬ子供と同じだ。急(せ)いては、うまくいくものもうまくいかなくなるな・・・・・どうも自分の年を考えると気持ちばかり急いて、周りが見えなくなってしまう」
いやはや、年はとりたくないものだ、と篠崎は頭をかいた。
そして、

「緋村君、すまなかった。貴殿の気持ちも考えず、数々の非礼、許されよ」

目の前にいる自分より小柄な男に頭を垂れた。
「それだけ、篠崎殿もこの国の行く末を案じておられるということ。何も恥じることなどないでござるよ」
だから顔を上げて、と無言で促(うなが)すと篠崎は再度剣心と顔を合わせた。
彼の目から、先ほどのような鋭さは消えていた。
そのまましばしの沈黙が流れる。



「あの       お茶、淹れなおしますね」



沈黙を破ったのは遠慮がちな薫の声。
その声に、剣心は篠崎の湯飲みが空になっていることに気付く。
「これは失礼した。薫殿、茶なら拙者が淹れなおすゆえ、稽古を再開するでござるよ」
「そう?じゃあ、お願いしようかしら・・・弥彦、始めるわよ」
静かな道場に竹刀の打ち合う音が響く。
稽古の様子をしばらく見入っていた篠崎が、視線はそのままに湯飲みの乗った盆を持って道場を退出しようとした剣心に声をかけた。

「緋村君」
「何でござろう?」
「さきほど貴殿の言った言葉では、長い目で見よとのことだが、もしそれでもあまり状況が変わらなかったら       










篠崎の視線の先には弥彦相手に打ち合いを続ける薫がいた。
父親亡き後、道場を閉め時代の流れに乗ることも出来たのに、刀を必要としなくなっても己の信念を貫こうとする彼女が剣心には眩しく映る。
その太刀筋に一点の迷いもなく、それが薫の心の強さを表していた。

おそらく、篠崎も同じことを感じたのだろう。
穏やかに見守りながらも、薫の一挙一動を一瞬でも見逃すまいと真剣に視線を走らせる。

「これからのことは拙者にも分からない・・・・だが、薫殿や弥彦のような者達を見ていると、あまり思い悩むことも無いのではないかと思うのでござるよ」
剣心は返事を返し、今度こそ退出しようとした。
その時、玄関先から慌てふためいた若い警官の声が聞こえた。










「失礼します、篠崎中将はいらっしゃいますか!?」










剣心と篠崎は一瞬顔を見合わせ、玄関先に走った。
「なんだ、何かあったのか?」
「はっ、先ほど町外れの林中にていきなり刀を持った男に襲われたと通報がありました。被害者は軽症で、目撃者に話を聞いてみると犯人は田原によく似た男であることが判明しました!」
「それで、田原は捕縛したのか?」
「いえ、それが被害者を斬りつけてすぐ走り去ったそうで・・・・」
「分かった、私も現場に向かおう」
それでは失礼する、と言い残し、篠崎は若い警官を伴い神谷道場を後にした。




















通報を受けた後、警官隊は篠崎の指揮の下、懸命に田原の捜索にあたっていたが、それが逆に起きてほしくないと願っていた事件を引き起こすことになる。



捜索にあたっていた警官隊の一人が姿を消し、付近を捜してみたところ既に死体となっていた彼を見つけた。
その警官は背後から心臓を一突きされ、声を上げる暇無く絶命していたという。










「被害者も背中から斬りつけられていたけど、こっちは斬られる前に気配に気付いて、逃げようとしたけど間に合わなかったらしい。ま、斬られる寸前で俺が出て行ったからあの程度の怪我で済んだんだけどよ」










今回の事件の目撃者というのは驚いたことに左之助であった。
彼は町外れに住む博打仲間を訪ねる途中、今まさに被害者の男に斬りかかろうとする犯人に出くわしたらしい。
目撃者ということで警官に事情聴取を受け、長時間警察で拘束されていたところを篠崎と浦村の口添えでやっと解放され、神谷道場に転がり込んだ、というわけだ。
すでに夕飯時は過ぎていたため、この日の夕餉にはありつけなかったが、勝手知ったる何とやら、台所の戸棚を開けて羊羹や煎餅を口に詰め込んだ。
その様子に薫は、もう何を言っても無駄、と判断してその時の状況を話すように促した。
「被害者の男っていうのが隣町の商家の若旦那で、結構なガタイの男だったぜ。育ちのよさを見せ付けるためか、似合いもしねえ洋装姿だったな」

煎餅がのどにひっかかったのか、ここで一旦話を中断して茶を流し込む。

「じゃあ、今回の被害者は武術を嗜んでいる人じゃなかったの?」
「ありゃ、見掛け倒しだな。なんか、商家のお坊っちゃんてことで大事に育てられたみてえで、武芸はからっきし駄目みたいだ。後ろ向いてりゃガタイは篠崎のおっさんと見分けがつかねえほどだっていうのに、片や剣術の達人、片や図体だけ育った馬鹿とはねえ」
「でも、殺された警官の人は体格もいいほうじゃないし、剣術の腕も常人並みだったんでしょ?」










今回、前の事件と異なる点はそこだった。
殺された警官は今まで犯人が狙ってきた人物像とかけ離れている。










「篠崎のおっさんが言うには、潜んでいたところを捜索中の警官に見つかりそうになり、隙を見て背中からぶっ刺したんだろうとさ」
「そう・・・・どちらにしても、この町でも死人が出ちゃったことには変わりないわね」
「そうでござるな・・・・」

薫に返事を返しながらも、剣心はどこか上の空であった。

「それじゃあ、今もその田原って奴を探してんのか?」
弥彦が左之助に問いかけると、
「警察も身内が一人殺されているからな。草の根分けてでも犯人を捜してみせるって息巻いているぜ」
と答えた。
それを聞いて弥彦はそうか、と頷く。



ふと、今まで黙って話を聞いていた剣心が逆刃刀を携(たずさ)えて立ち上がり、そのまま居間を出ようと障子に手をかけた。



「剣心?どうしたの?」
突然の剣心の行動に理解できず、薫は少し慌てた様子で剣心に声をかける。
「誰か来た。おそらくは署長殿でござろう」
「署長さんって・・・ちょっと、剣心?」
そのまま居間を出た剣心に続くようにして薫たちも後を追う。
玄関に出ても誰も居ない。
剣心は構わず玄関の戸を開けると、門をくぐった浦村の姿が見えた。

「あ、緋村さん」

剣心の姿を認め、浦村が小走りに近づいてくる。
「何か、あったのでござるか?」
「実は、田原をこの近辺で見かけたという情報が入りまして、大変恐縮ですが緋村さんにご尽力いただけないかと・・・」
「承知した。左之・・・・」
剣心が後ろを振り向くと、
「ここはまかせとけって。捕り物に参加出来ねえのはちと惜しい気もするが、今回は守りに入ってやるよ」
皆まで言わなくても分かっている、という風に右手をひらつかせて左之助が答えた。
それを見て剣心は大きく頷き、心配そうな薫を安心させるように笑顔を作った。
「というわけでござるよ、薫殿。拙者は出かけるゆえ、帰ってきたら何か軽く食べれるものを作っておいてほしいのだが、頼めるだろうか?」
薫は口を開きかけたが、剣心に先手を打たれてしまい、言おうとした言葉を封じられてしまった。
渋々ながら首を縦に振るが、それでもこれだけは言っておきたかったのか、



「ちゃんと作って待っているから・・・・気をつけてね?」



と彼の身を案ずる言葉を口にする。
「重々承知しているでござるよ。左之、弥彦、ここは頼んだ」
「ここのことは気にしないで、いってらっしゃい剣心」
薫のほうも剣心に要らぬ心配をかけぬよう、笑顔を返した。
その笑顔を己の目に焼きつけ、剣心は浦村と共に夜の町に足を踏み入れた。






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連載小説で毎回悩むのが背景。
今回は「道場の床」をイメージしてみました。
本当は道場そのものがよかったのですが、探すのが面倒くさくて←待て
結局、こんなものが背景になりました。
ちなみに撮影現場は我が家の廊下です(笑)

次回、状況が色々と変わってきます。
そんな中でも剣×薫のスタンスは崩したくなくて、何気ないところで通じ合っている二人を書いてみたんですけど・・・うーん、どうなんだろう?←自分でもよく分かっていないらしい